大学の先生という仕事をしていると、よく人に言われます。特に昔のビジネス時代の同僚や先輩や後輩などに言われます。「人を育てるってすばらしいお仕事ですよね」とか「先生のお仕事は将来の日本を背負って立つ若者を育てることなんですよね」とか。でも、実は私は16年もこの仕事をしていて「人を育てる」なんておこがましいことを考えたことがありません。

最近は「人を育てる」という言葉をどうも安易に使いすぎている気がします。企業でも「社員を育てる」「部下の育成」(そもそも私は部下という言い方が軍隊みたいで嫌いだからこの言葉も使わない)というように「親が子を育てる」のと同じ表現を平気で使うようになりました。あまりにもしょっちゅう使われるので、最近はちょっとした違和感を覚えます。

「育てる」かどうかは別として、ただし、私は人になにかを教えることがやたらと大好きなんです。「おいおい、どうよ?こんなおもしろいことがあるんだよ。これ知っといた方が絶対いいよ」というネタが私の専門分野にはいくらでもあって、ひたすら教えたいわけです。そして、どういう手順で話したら相手がおもしろがるか、どういう絵を書いて説明すると相手が理解しやすいか、そんなことばかり考えています。

大学という最高学府の教育は、実はそういうことではないかと思っています。そもそも大学の先生は中学や高校の先生と違って教員免許を持って教えているわけではありません。持っているのは自分の専門分野と博士という学位のみで、自分がおもしろいと思うことを好き勝手に教室でしゃべっているだけです。

それを聞いている学生の中から「へー、おもしろいじゃん。もっと教えて」という変わり者が出てきて「でしょ?実はね、もっとおもしろいことがあるのよ」というノリで、どんどん話が深みに入っていく。その先にはなにがあるかはわからない。学生側は「これを知っておくと将来なんの役に立つかはよくわからないけど、なんだかおもしろいからもっと教えてもらおう」と思い、教員側は「役に立つかどうかは後で考えればいいから、まずはオレの話を聞けよ」と思いながら「教えたい立場」と「学びたい立場」の関係が成立します。

このようにして「教えたい立場」と「学びたい立場」の関係が知的好奇心をエンジンにして、ひたすらその専門分野の奥深いところに無計画に、そして無防備に入っていきます。ファイナンス理論がそうであるように、どの専門分野も懐が深いので、どこにどんな罠があるのかわかりません。だから「教えたい立場」としては最低でも博士学位が必要です。これが高等教育機関だと私は信じています。

逆に、教えたいと思わない教員と学びたいと思わない学生にとって、大学の教室はまちがいなく苦痛の場所になります。特に「モノ考えるのってめんどくせーな」とか「人と話するの得意じゃないし」とか、知的好奇心が最初から起動しない学生が大学に来ることは人生の大きな無駄かもしれません。もう18歳なんだから働いた方がいいということになります。

私の修士・博士課程の指導教員だった伊藤彰敏先生は、おそらく私を「育てた」という言い方はしないと思います。私の方も、こう言うとそれはそれでおこがましいですが、「育てられた」という表現がなんとなくしっくりきません。「この人から学びたい」という私の気持ちを、伊藤先生はうまくコントロールしながら、コーポレートファイナンス理論の世界を自由に泳がせてくれました。伊藤先生も「このモノわかりの悪い男になんとかわからせたい」と思いながら二人で研究室を彷徨っているうちに、気がついたらいつのまにか博士論文ができていた、というのがしっくりくる表現かもしれません。

誰かが誰かを育てるのではなく、知的好奇心に引きずられながら、気がついたらずいぶん遠くまで来ている。大学という場所は、本来そういう場所です。だから私は今でも「人を育てる」という言葉には少し違和感を覚えます。