IN BRIEF

測ればわかる。数値なら客観的。目標を置けば人は動く――そんな「常識」が、むしろ経営をおかしくしているとしたら? ROEから人的資本、ガバナンスまで、なんでも数値化したがる「測定執着」のワナを考えます。

三つの信念が構成する「測定執着」

「測定執着:metric fixation」は歴史学者ジェリー・ミュラーの著書に出てくる言葉です[i]。測定執着とは「定量的な測定指標がしばしば本来の目的を見失い、かえって制度や人々の行動を歪めてしまう」[ii]現象をいいます。学校では偏差値、会社に入ると営業成績、研究者になれば研究業績、われわれはどこにいようと数値に追い立てられます。その数値をよくしようと努力すればするほど、本来はなんらかの目的があったはずの測定指標が、いつの間にか目先の行動の目標に転化し、文字通り「手段と目的」を取り違えます。

そうなると、測定された指標にはもはや正しい保証などないにもかかわらず、われわれは世界大学ランキングとか就職企業人気ランキングとか、なにを根拠に行われたかよくわからないランキングを素直に信じたり、平気でなにかの判断に使ったりすることになります。ランキングや序列に依存することに何ら問題意識を感じることもなく、むしろ安心すらしてしまいます。

ミュラーは、測定執着は三つの信念によって生まれるといいます。少し意訳してわかりやすく表現すると、第一は、本来なら個人の才能や経験にもとづいて下されるべき判断を、標準化されたデータによる相対評価に置き換えることができるという信念です。第二は、そうした測定結果を数値データとして公開することこそが組織の透明性を高め、説明責任を果たすことになるという信念です。そして第三は、数値化された測定基準を報酬や懲罰にリンクさせることこそが、人々を動機づける最善の手段だという信念です。ミュラーは、この三つの厄介な信念を測定執着の構成要素としています。

泥沼化していく測定執着

測定執着が実践されると、当初は意図していなかった好ましくない結果が起きるとミュラーは主張し、「数えられるものすべてが重要なわけではなく、重要なもののすべてが数えられるわけではない」という格言に触れます。組織には複数の目的があり、仕事にもさまざまな側面があることはいうまでもありません。これは誰もが理解できる当たり前のことです。それにもかかわらず、特定の数値目標が成果測定に使われるようになると、その数値では捉えられない他の重要な目的がないがしろにされてしまう。ミュラーはそう指摘します。

ミュラーの主張はそればかりではありません。測定執着の結果、好ましくない結果が起きても、先の三つの信念は持続するといいます。そして、その問題に気づいた組織がとる典型的な反応は、もっと多くの数値測定を追加するということになります。その結果、データに次ぐデータの蓄積が行われ、ますます役に立たないデータばかりが積み上がる、そればかりか、その無駄なデータを集めるために多くの時間と労力が費やされ、やがて組織は疲弊していく、というものです。実に滑稽な話ですが、身につまされる指摘です。

ミュラーの著書では、測定が人間の行動を悪い方向に変化させてしまう現象を説いたグッドハートの法則とキャンベルの法則が紹介されます。グッドハートの法則は、管理のための指標がいったん目標そのものになると、もはやその指標は有効な指標ではなくなるというもの。また、キャンベルの法則は、定量的な指標がなんらかの意思決定に使われれば使われるほど、目標数値の達成そのものが目的化され、組織や個人が指標をよく見せるために行動してしまう。その結果、不正やモラル低下が制度に蔓延するというものです。

人間は測定に適応してしまう存在

数値測定は単なる評価ではなく、人間の行動そのものを変化させてしまうという点で、小塩[2026]ではグッドハートの法則とキャンベルの法則をうまく対比させています。すなわち、グッドハートの法則は「測定が行動の目的化を引き起こす」現象、キャンベルの法則は「測定が制度の腐敗を引き起こす」現象を説明しているといえます。

小塩[2026]は、いかにも心理学者らしく二つの法則を次のように説明しています。「測定が導入されると、人間は測定される側の合理性に従って行動を変えます」。つまり、人間は「測られる存在」であると同時に「測定という状況に適応する存在」だということです。数値化の背後にある目的や理論を十分に考えることなく、それが客観的で中立的なものだと信じ、「自分たちは正しいことを行っている」という信念から逃れられなくなるわけです。「metric fixation」という言葉からして、ミュラーは数値化へのこだわりを、もはや一種の強迫観念として捉えているようにも見えます。

ROE8%の意味は企業によって異なるはず

さて、そこで振り返りますと、このコラムでも再三取り上げてきたように、ROEという数値が経営の成否を正しく表しているという信念も、測定執着のひとつかもしれません。ましてや、本来は直接測定できない資本コストをあえて数値化し、ROEと比較することも同じです。女性管理職比率を人的資本の指標と考えたり、社外取締役比率をガバナンスの指標と考えたりすることも、ただ数値化のみで判断しているとすれば同様です。環境問題まで数値化し、その情報開示に企業が右往左往させられている現状も、この部類といえるかもしれません。

実際には複雑で多様な現象が固有の企業で起きているにもかかわらず、数値化によって標準化単純化させてしまうことは、考えようによってはある意味で楽かもしれません。なにも考えずに公式に数字を入れて計算すれば済むことですから。

もちろん私は数値化そのものを否定するつもりはありません。ただ、ROE8%はどの企業でも同じ8%です。しかし、その8%をどう実現するか、その8%にどのような意味があるのかは、企業によってまったく違います。経営にとって重要なのは8%という数字ではなく、むしろその違いの方です。その企業が一体なにを持っていて、過去のどのような経験がその企業に蓄積されていて、経営者はこれからどこに向かってその企業をどのようにデザインしようとしているのか、むしろ、数値だけでは決して表現できないところに、その企業固有の競争優位があるのではないでしょうか。


[i] Jerry Z. Muller[2018], ‘The Tyranny of Metrics’, Princeton University Press’.(松本裕訳[2019]『測りすぎ~なぜパフォーマンス評価は失敗するのか』みすず書房)

[ii] 小塩真司[2026]『「数値化」中毒』PHP新書